生きる

甘ったれメンヘラ社会不適合者の戯言を垂れ流すブログ

反出生主義(アンチナタリズム)の穴

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少し前、反出生主義なるものを知って、大いに賛同していたのだけれど、よく考えれば根拠がなく、臆見にすぎないのではないかと疑問になってきた。

 

そもそも反出生主義というのは、この世は苦痛で溢れており、生きる価値がなく、子どもを産むべきではない、という立場のこと。

 

最近知ったこの主義なのだけれど、きっかけは忘れてしまった。

 

とにかく僕は反出生主義に度肝を抜かれた。完全にこの思想の虜になった。反出生主義に関するウェブサイトを漁り、シオランの『生誕の災厄』まで購入した。これは白痴な自分にはあまり理解できなかった。というのはここだけの話。

 

反出生主義への反論が列挙され、次々にそれを論破していくなんて内容のサイトもあった。そのどれもが的確で、完璧で、反論の余地は認められなかった。

 

子どもは産むべきではないのだ!この世に産み落とされてしまった悲劇の子の一人として自分は子どもを作らないことを胸に誓い、反出生主義と一生を共にすることを決めたのだった…

 

 

 

しかし最近になって、この考えに身を染めているうちに、腑に落ちない点がでてきた。それは、反出生主義は、生まれる前の世界、意識、感覚までを語ってしまっているということだ。

 

というのも、反出生主義は、生まれるよりも生まれない方がよい、つまり、生後よりも生まれる前の方が苦痛が少ない、もしくは生まれる前には苦痛はない、ということを前提に考えが進められていくのだ。

 

反出生主義者は、この前提を証明できてはいない。生まれる前が苦痛のない、もしくは苦痛の少ない状態であると、なぜ言えるのだろうか。憶測でしかないのではないか。

 

仮に、生まれる前、死後の世界が、「無」だったとして、苦痛も時間も感覚も感情もない世界だったとして、そうしたら、幾分説得力があるようにも思える。しかし、ニーチェ永遠回帰説のように、死んでもまた同じ人間として生まれてくるとしたら、もしくは輪廻転生のように、他の生物としてまた生まれてくる運命なら?

 

「無」の空間では時間も感じることはない。死んでからまた生まれるまでの間、「無」の状態ではなにも感じないことになる(厳密な無の定義は難しいが)。つまり、死んでしまったら、感覚としては、すぐに別の生物として生まれてくることになる。つまり親が自分を生まなかったとしても、必然的に何者かとして生を受けることになるのだから、反出生主義の主張は成り立たない。

 

さらに極端に言うと、生まれる前の世界が地獄のような苦しみを感じ続けねければならない場所だったのなら、子どもを生むことは救済であるといえる。

 

生まれる前がどうであったかは誰にも分からず、語ることもできない。それを根拠なく苦痛のないものであると決めつけてしまう反出生主義の主張は、間違っているとは言えないが、正しいともいえない。だが、不確定なことを正しいと主張するのは、宗教と同じだ(宗教を否定する意図はない)。

 

反出生主義の主張は正しい“可能性がある”が、間違っていることも充分に考えられる訳だ。完璧ではなかった。

 

つまり、生まれる前や死後についての思想を完成させないと、この反出生主義をどうこういうことはできない。自分にはそれができていない。反出生主義者の中には、死生観の確立を経て反出生主義者になったひとよりも、死生観は後付けで、まず反出生主義を知り、都合よく解釈するために、死生観を自分の頭で吟味せずに語ってしまっている人間が多いような気がする。反出生主義には懐疑的な立場だが、後者よりも前者の方がはるかに賢いと思う。後者はただの詭弁家だ。自分がそうだった。

 

もっというと、死生観の確立ができていないといったが、自分は生きている限り、それは不可能だと思っている。そんな自分には反出生主義を主張する資格がなくなってしまった。

 

というわけで僕はビックダディー目指して子どもを作ろりまくろうと思う(嘘)。