生きる

甘ったれメンヘラ社会不適合者の戯言を垂れ流すブログ

3分1の確立で癌に侵され死ぬ人生

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生きることの素晴らしさだとか、生命の神秘とか、そんなことを語る映画を最近よく見る。見たいわけではないが、そういう作品で溢れかえっているから、どうしても目に触れる。

 

そういう考え方に共感して、涙して、自己啓発なんかにまで繋げてしまう人間が羨ましい。そんな風だったらどんなに幸せだろうか。嫌味ではなく、本当にそう思う。

 

自分は反出生主義者ではないにせよ、生きることが苦痛そのものであるということは肯定する。

 

それってあなたが不幸だからでしょ?ポジショントークに過ぎないんじゃない?なんて言葉が返ってきそうだ。しかし、あくまで客観的事実に乗っ取って、生きることは不幸であると主張する。もちろんその事実に沿った上で感じたことは主観そのものだが、ポジショントークと一蹴されてしまうほどの主張ではないと思いたい。

 

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掲載元

 

このデータは、日本人の死亡原因のグラフだ。これを学校の30人クラスに置き換えて考えてみると非常に分かりやすい。計算は雑だが、ざっとこんな感じになる。

 

学校の30人クラスのうち、10人が癌で、5人が心臓病で、それぞれ2人づつ肺炎と脳血管疾患で、そして1人が不慮の事故で死ぬ。付け加えれば、6人が精神病にかかる。

 

「それでどうしたというのか。人間なんていつか死ぬのだから病気になるのだって当たり前だ。今に知ったことじゃない。」と言える人はいい。自分には到底そんな考えができないのだ。

 

普段あまり意識しない自分の死に方を考えたとき、これが事実だと知ったとき、多少なりとも不安にはならないだろうか。自分にはその不安と恐怖が常にある。暇を持て余しすぎたせいかもしれないが。

 

自分はおそらく、癌で、心臓病で、肺炎で死んでいくのだ。

 

死に様に抱く恐怖は、生きることの苦痛の一部にすぎないけれど、やはり大きい。

 

自分は病気で死ぬのだ。そうに違いない。身体を蝕まれ、苦しみに喘ぎ、悶え、顔を歪ませて死んでいくのだ。

 

もし仮に、人に尽くし、自分に尽くし、幸せに生きたとしても(自分には到底無理だろうが)最終的に打ち付けられる現実がこれだ。あまりにひどい仕打ちではないか。それでも、どうせ苦しんで死ぬのだから、それまでの間はそんなことを忘れて楽観的に生きようじゃないかと、そう言える人間もいるのだろうが、自分には到底受け入れられない。虚無的だ。

 

ではもし仮に、永遠の命が手に入れられたら?それもまたひどく恐ろしい。永遠に生きるような価値を見出せないからだ。こんなことについても語り出したら長くなってしまうからやめておくが、死に様を考えるということは、それだけでも充分に生きることへの悲観に繋がると思うのだ。それくらいの絶望感がそこには染み付いている。

 

生きることそれ自体が苦痛なのだ。自分がかすかに求めているのは、生の中にある束の間の快楽と、死の先にある希望だけだ。